新潟県村上市と鮭の歴史|鮭とは

新潟県北部に位置する村上市は、もと内藤氏五百万石の城下町として栄えていた地であり、町民町や武家町、寺町など情緒溢れる昔ながらの町並みが今も残る新潟県でも指折りの観光スポットとして有名な市です。

そんな歴史や文化を感じさせてくれる新潟県村上市内には、荒川・三面川・大川・勝木川といった日本海へと注ぐ河川が流れており、毎年秋から冬にかけて多くの鮭たちが産卵のためにこれらの河川へと戻ってきます。

鮭は、頭の先から尻尾の先まで余すことなく食べることができる珍しい魚でもあるため、この地に住む人々にとって、海からやってくる鮭たちはとても重要な食糧であったと言われています。

また、村上市で獲れた鮭たちは平安時代の頃には、遠く離れた京都府の王朝貴族へと献上されていたことが古文献に記されており、村上市の歴史を語るうえで「鮭」は無くてはならない存在だということが分かります。

ところで、新潟県村上市の歴史を語るうえで無くてならない存在である「鮭」ですが、なんと村上市は世界で初めて鮭の養殖に成功した地だということをご存知ですか。

この世界初の偉業を成し遂げたのは、越後国村上藩の藩士「青砥武平治 (あおとぶへいじ)」という人物です。

彼はいったい、どのようにして鮭の養殖を成功させたのでしょうか。

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青砥武平治と鮭の養殖

1713年、越後村上藩士金沢儀左衛門の二男として越後国岩船群村上町に生まれた武平治は、幼いときに青砥冶兵衛の養子となり、以来青砥姓を名乗るようになります。

彼は当初三両二人扶持の小身だったのですが、1766年には当時五万余石の村上藩としては異例の七十石の士分まで昇格した才気溢れる人物であり、新潟県民をはじめ、鮭の産地として知られる場所では、彼の名を知らない者はいません。

青砥武平治が異例の出世を果たした理由、それは当時の村上藩にとってたいへん重要な資源であった「鮭」の養殖を成功させた人物だからです。

越後村上を流れる三面川 (みおもてがわ)は、国がとがめたくなるほど大量の鮭が獲れる「鮭川」として京の都にも知られる有名な川でした。

しかし、この地に住む人々にとって、海からやってくる鮭たちは藩政を支える重要な資源であると同時に、生きてゆく上で欠かせない重要な食糧でもあったため、人々は毎年やってくる鮭たちを乱獲し、江戸時代中頃になると、鮭漁の不良が続くようになり、遂に豊かだった村上藩の財政が底をついてしまったのです。

この非常事態を脱するために立ち上がったのが村上藩の武士・青砥武平治でした。

彼は、「三面川に生息する魚たちは、この川で成長し、一生を終えているが、海へ出て行った鮭の稚魚は、もしかしたら何年か経って大きく成長したら、生まれた川へと戻って来ているのではないか」という鮭の回帰性に気付いたのです。

そこで、青砥武平治は鮭が産卵しやすい環境を人工的に造り、鮭たちに産卵をさせ、孵った稚魚を海へと送り出してやれば、何年かしたら大きく成長した鮭がたくさん帰ってくるはずだと考え、三面川を本流とするバイパスを造り、鮭が産卵しやすい環境を整え、鮭の稚魚たちが海へと出てゆく春の川漁を一切禁じる鮭の自然孵化システム「種川の制」を考案しました。

そして、村上藩主は青砥武平治が考案した「種川の制」に重要な河川の工事を1755年頃に着工し、50年という長い歳月をかけて、見事完成させたのです。

青砥武平治が「種川の制」を考案以来、三面川へと戻ってくる鮭が次第に増え、豊漁が続くようになると、今まで村上藩に納められていた運上金40両が、1800年頃には1000両を越えるまでになり、村上藩の財政が潤うようになってゆきます。

世界で初めて「鮭の回帰性」を発見した村上藩の藩士・青砥武平治ですが、残念なことに彼についての詳しい史料はほとんど残っていません。

しかし、彼が考案した画期的なアイデアで越後村上国が救われたのは言うまでもありません。

新潟県村上市における鮭文化の礎を築いた偉人・青砥武平治が考案した「種川の制」以降、村上市では明治11年頃にアメリカで誕生した孵化技術を取り入れ、日本初の鮭の人工孵化に成功し、減少傾向にあった鮭の遡上数を増やし、今では「鮭のまち」と呼ばれるまでに成長しました。

現在でも鮭の産卵と稚魚を保護するために作られた三面川の分流「種川」では、秋から冬にかけて遡上してきた鮭の姿を川岸から眺めることができます。

新潟県を訪れた際は、郷土と鮭を愛した青砥武平治が考案した種川を訪れてみてはいかがでしょうか。

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