マグロの歴史|マグロと日本の食文化

「日本人は農耕民族である」とよく言われますが、四方を海で囲まれていたこともあり、農耕だけではなく漁業も盛んであったことが近年の発掘調査によって明らかにされました。

その証拠に宮城県の室浜遺跡や青森県の三内丸山遺跡、静岡県の大畑遺跡などの貝塚から、イノシシやシカなどの動物の骨と共にマグロやマダイなどの魚の骨が出土されており、さらに滋賀県の入江内湖遺跡からはマグロの骨だけではなく目玉も発見されています

「滋賀県は海に面していないからマグロを食べられないのでは?」と思われた方も多いと思いますが、既に日本では縄文時代の頃から内陸部と沿岸部での交流が盛んに行われており、この時代の人々は私たちが思っている以上に多様で豊かな生活を送っていたのではないかと考えられています。

しかし、勘の鋭い方ならばここで1つ腑に落ちない出来事に気付かれたのではないでしょうか。

そうです。マグロは外洋性の大型回遊魚のため、縄文時代の人々がマグロを獲ることはできないということです。

縄文時代の人々はどのようにマグロを獲り、食べていたのでしょうか。

今回はマグロが日本で食されるようになった歴史についてご紹介します。

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縄文時代とマグロ

日本各地の縄文時代の遺跡から出土されているマグロの骨や目玉ですが、外洋性の大型回遊魚であるマグロを縄文時代の人々はどのように捕まえていたのでしょうか

遺跡の調査を行っている方々によると、イノシシやシカなどの動物の骨を丁寧に加工して作ったお手製の釣り針を用いてマグロなどの魚を釣っていたのではないかとしています。

しかし、どんなに優れた釣り針を作ったとしてもマグロやクジラなどの巨大な海産生物を獲ることは現実的に不可能であり、なぜ縄文時代の人々がマグロやクジラなどの巨大な海産生物を食べることが出来たのかは未だ謎に包まれています。

ただ、北海道や東北地方では縄文時代の遺跡から「回転式離頭銛(かいてんしきりとうせん)」と呼ばれる道具が見つかっており、この回転式離頭銛を手に、船の上から巨大な海産生物を獲っていたのではないかと推測されています。

マグロは価値の低い魚だった!?

縄文時代の頃から食べられているマグロですが、実は江戸時代の中頃を迎えるまで価値の低い「下魚」と呼ばれ、全く人気がなかったそうです

なかでも特に現代日本人が愛してやまない大トロや中トロなどの脂がたっぷりのった部位は「猫またぎ」と呼ばれ、猫も食べない不味い部位として全く人気がありませんでした。

では、なぜ「下魚」と呼ばれていたマグロの価値が上がったのでしょうか。

マグロの価値が飛躍的に上がったのは、江戸時代後期からだと言われています。

マグロは赤身であるが故、他の魚と比べて鮮度が落ちるのが早く、日持ちさせようと塩漬けにすると味が悪くなってしまうため、マグロの産地から江戸城下のような都市部まで新鮮なマグロを届けることができませんでした。

しかし、江戸時代後期になると千葉県銚子を中心に醤油の醸造が行われるようになり、マグロの切り身を塩気の強い醤油へと漬け込み、生の状態でもマグロを安全に運ぶための保存技術が誕生し、江戸城下の人々のあいだで「おいしい」と評判になり、これがきっかけでマグロの需要が飛躍的に高まり、一気に高級魚としての地位を確立させていったのです。

戦前までは「トロ」は人気が無かったって本当?

今では老若男女問わず、大人気の「トロ」ですが、戦前までは全く人気の無い部位だったことをご存知ですか。

マグロの腹部で最も脂がのっている「トロ」は、塩気の強い醤油に付けても塩分がほとんど浸透しなかったため品質の劣化を防ぐことができず、さらに繊細な味覚を持つ江戸っ子たちの口には脂が強過ぎて合わなかったということもあり、マグロのなかでも最も値打ちの低い部位とされていました。

しかし、時代の流れと共に冷凍技術も飛躍的に進歩したことで、マグロの赤身だけではなく、トロも新鮮な状態で運ぶことができるようになり、くちの中でトロッととろけるような食感と濃厚な脂の旨味がクセになると、今ではマグロの中で最も値打ちの高い部位となっています。

今回はマグロが日本で食されるようになった歴史をご紹介させて頂きましたが、いかがでしたか。

「日本ではこんなに古い時代からマグロを食べていたんだ!」「日本の歴史はまさにマグロの歴史でもあるんだね」とたいへん驚いた方も多いのではないでしょうか。

マグロは私たち日本人にとって無くてはならない存在であり、これから先も「食卓の定番魚」としてサケやアジ、サンマなどと共に愛されてゆくことでしょう。

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